防災WEST

轟ダムによる水害と撤去運動(都城市高城町・高崎町)

自然災害伝承碑

 現在の大淀川第一ダムの上流3.7km地点に位置する観音瀬は、都城盆地の水が1か所に集まる所であり、大淀川に流れ出るための捌け口となっています。ここに昔、「轟ダム」と呼ばれる大淀第一発電所の旧堰堤がありました。轟ダムは、観音瀬水路の上流に建設したため度重なる水害を起こし、遂に住民の運動により撤去された全国でも珍しいダムです。

 運動の契機となったのは、昭和29年9月台風12号における大水害。宮崎県下の被害状況は、死者51人、負傷者62人、行方不明者13人、失全壊家屋614戸、半壊683戸、床上浸水8228戸、床下浸水11,279戸などに及びました。(被害数は宮崎県災異史より)

 特に都城では679.6mmの期間降水量(昭和29年9月10日~9月13日)を観測し、高城町、高崎町、都城市等の都城盆地内に甚大な人的被害・農業被害をもたらしました。当時放送されたニュースがNHKアーカイブスにて公開されています。こういった映像記録は貴重ですよね。

台風経路図と当時の9月13日09時の天気図(気象庁「災害をもたらした気象事例」より抜粋)

 そして、激しい撤去運動の後(地元住民、県および県議会、建設省(現国交省)、九州電力を巻き込んだそれはそれは大変な交渉だったようです)、代わりに下流に現在の大淀川第一ダムを建設することで結着。昭和36(1961)年に轟ダムは撤去され、今は観音瀬の岸に「轟ダム跡」記念碑が残っています。

 記念碑の側面と背面には、撤去に至るまでの経緯や関係者の氏名等が書かれています。それほど劣化していないため肉眼でも読み取れました。以下に記録として碑文を記載しておきます。旧字体や異体字は新字体にしておりますのでご了承ください。

 今後、記念碑が腐食や劣化した場合に備えて、また、正確性を担保するため、ひかり拓本等でデータ化しておくと良さそうです。この一つの石碑にどれだけの情報がつめられているのかを思うと、ポツンとそこに置いてあるだけではもったいないです。自然災害伝承碑としても登録できると思うのですが。

 この記念碑の近くには石の祠堂があり、仏像が祀ってあります。これはダム工事で亡くなられた人を供養するためのもので、当時の中国奉天から持ち帰った仏像だそうです。観音瀬の”観音”はこれが由来かと思われましたが関係なく、名前の由来は定かではないとのこと。

 轟ダムの代わりに建設された大淀川第一ダムにも訪れました。

 轟ダムについては『轟ダム史』(霧島盆地水害対策委員会)という書籍があるようです。宮崎県立図書館にも所蔵。

 都城市や県の観光地となっている観音瀬ですが、そこにまつわる歴史は想像以上に奥深いものでした。

アクセス

 「轟ダム跡」記念碑は高崎町側に建っています。

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